落語協会の活動
2025年『謝楽祭俳句』募集 総評
『謝楽祭』俳句募集総評
2025年度令和7年
第11回『謝楽祭』俳句募集総評
謝楽祭実行委会 選句 金原亭世之介
2025謝楽祭俳句募集に今年もたくさんの投句をいただきましてありがとうございました。残暑厳しい折の「謝楽祭」は本年まで。来年は6月7日に開催が移行されますので次回は夏の兼題でお逢いする事となりそうです。今から楽しみでなりません。さて謝楽祭俳句も十一年目を迎え皆様から今年も熱い作品の四百余句が届きました。重複投句を外して三百九十一句。今回も珠玉の作品を多数ご応募いただき感激の至りであります。総評は心を込めてさせていただきましたので是非ご興味ある方は最後までお読みいただければ幸いです。
さて「第十一回謝楽祭俳句募集」は「NHK俳句」俳句誌「河」の掲載をいただき、おかげさまで昨年以上の作品が集まりました。
その中から各兼題「天」一句「地」二句「人」三句と全体から「佳作」十作品を選句させて頂きました。今年も秀句が集まり選句はひと苦労でありました。今回の兼題は「秋雨」「南瓜」「下駄」の三題。
「秋雨」は落語「笠碁」の背景にある季語です。秋霖(しゅうりん)、薄梅雨(すすきつゆ)とも呼ばれます。夏の暑さから秋の涼しさに変わる時期に、秋雨前線によってもたらされる長雨のことで、梅雨の時期の雨とは異なり、しとしとと降り続く様子が特徴です。どこか寂しげで物悲しい印象を与える季語です。最も近頃は線状降水帯などと言って家が流れるほどの大雨の秋雨もあるこの頃です。
「南瓜」(かぼちゃ)は唐茄子、南京、ぼうぶら、栗南瓜など呼び名は色々、夏の間に大きな黄色い花をつけた後に秋に実を結びます。人の頭ぐらいあるものが畑にごろごろ転がっている様子はどことなくユーモラスで「かぼちゃ屋」「唐茄子屋政談」など落語の中に幾度となく出演する中秋の季語です。
「下駄」は一般的に夏を連想させる履物で浴衣を着る際に下駄を履くことが多いことから、夏の季語として認識されています。しかし、下駄は一年中履くことができるため季語としては夏に限定されたものではありません。怪談噺の「牡丹灯籠」池之端七軒町に響くカランコロンの下駄の音はまさに夏の季語になるかもしれませんね
今年も俳句力のある常連のさすがという句、そして北は北海道から南は沖縄まで、全国から句力のある初参加の作品も多く集まりました。たくさんの力作に私も、いち読者として楽しく選句させていただきました。もう少し俳句の基礎さえ学べば名句へ育つ作品も多くあったのも事実です。是非来年はしっかり添削を加え「天」に抜ける作品で選句者を困らせてください。これからも「謝楽祭俳句」が寄席や落語そして俳句への興味の入り口になっていただけることを心から願っております。来年も寄席芸人たちを唸らせる作品のご応募お待ちいたしております。
今回は「秋雨」「南瓜」「下駄」各兼題に
「天」一句
「地」二句
「人」三句
そして全句から「佳作」十句を選ばせていただきました。
『秋雨』
「天」の句 | 秋雨や暮残りたるカフェの椅子 | 黒川俊郎 |
|---|---|---|
「地」の句 | ろくでなしからの着信秋の雨 | 川又しのぶ |
追い出しや憂世に帰る秋の雨 | 笹嶋(酒井美穂) | |
「人」の句 | 君の声秋雨とざす恋模様 | 鈴田留依 |
動かぬは秋雨の雲と片思ひ | 岡田基壱 | |
秋雨や過ぎと足らずで笑ひ失す | 桑原駘夢(桑原龍司) |
「秋雨」の募集要項に落語「笠碁」の一説を書いてしまったためか、「笠碁」を題材とした句や先代小さんを詠んだものが沢山届きました。謝楽祭俳句ならではの句を是非詠んで貰いたいのですが「地」に抜けた句のように自身の体験を背景にが詠まれるときっと良い句が生まれると思いますので是非挑戦して欲しいと思います。
さて「天」は「秋雨や暮残りたるカフェの椅子」です。気品ある巧い句ですね。中七以後の「暮残りたるカフェの椅子」これだけで一つの詩の物語が出来上がっています。日用品の眼鏡や帽子、万年筆などは使っていた人の想いがその品に投影されていて現代俳句の題材としてよく用いられますがこの句の「椅子」の使い方はかなり上手いですね。中でも椅子は愛用していた人の形が残るものですからこの句のように主のいない椅子には座っていた人の面影が残像としていつまでも消えないものです。カフェという場所の設定も巧いですね。居酒屋のカウンターやカフェの常連はいつも同じ時間に同じ席に座っているもの。秋雨の風景がカフェの窓ごしに見えてきます。個人的にはお茶の水の山の上ホテルのヒルトップが浮かびました。川端康成や三島由紀夫、池波正太郎などの文人が愛した今閉館中のホテルです。もちろん限定された場所ではないでしょうが、「暮残りたる」と「秋雨」がカフェにたどり着けない人への哀愁を感じさせます。「地」は「ろくでなしからの着信秋の雨」この作者にとっての「ろくでなし」とはいったい誰なのか。そんなことを考えながら句を眺めました。ろくでなしとくれば亭主の事なのか、はたまた自分の子供か、恋人か、秋の長雨のイメージから待っていた時間の長さを感じます。はじめは滑稽句として選句しましたが何度か読むうちに「秋の雨」の季語の背景から詠み手の葛藤が感じられてきました。作者は「ろくでなし」からの着信をずっと待っていたのです。ひと月いや一年かもしれません。もう諦めたころに来た着信。今頃この気持ちをどうすればよいのでしょう。作者のやるせなさが「秋の雨」に濡れています。
もう一句「追い出しや憂世に帰る秋の雨」上五は謝楽祭俳句ならではの「追い出しや」という言葉で句が始まります。これは寄席の最後に打たれる「追い出し太鼓」のことです。「憂世」とは「ゆうせ」「うきよ」と読みます。辛いことなど諸々がある世の中のことで「浮世」とは違って現実に起こっている世の中を考える憂う気持ちを表す言葉です。「憂国」は国を憂う気持ちの言葉で俳句では三島由紀夫の忌日を「憂国忌」と詠むのは有名です。寄席の追い出しに押されて外へ出ると、しとしとと秋の雨。落語という穏やかな人情の世界から急に冷たい現実に戻ってゆく。寄席の木戸から広がるそれぞれの寄席の風景が見える謝楽祭俳句ならではの句です。「人」の句。まず二句「君の声秋雨とざす恋模様」「動かぬは秋雨の雲と片思ひ」謝楽祭俳句には珍しい初々しい「恋」の句です。「君の声」の句は下五の「恋模様」の表現が天気用語の雨模様と重なってその行方の危うさを巧く表現しています。「男心と秋の空」と江戸時代遊女や若い女性が例えたように雨は君の声さえ閉ざしてしまうものです。最も近頃は「女心と秋の空」が主流に変わったようですが。落語「小町」では今でも「男心と秋の空」と噺家は高座でしゃべっております。もう一句「動かぬは秋雨の雲と片思ひ」の句は恋の思いすら届かない秋の長雨です。雲と片思いの取り合わせが形にならないじれったさを感じさせてくれます。二句とも二十代の若い作者の作品でした。「秋雨や過ぎと足らずで笑ひ失す」はうって変わって作者は七十九歳。下五の「笑ひ失す」は笑いを失う事ではなくて、笑ってはいけない状況で堪えきれずに笑ってしまう事です「失笑を禁じ得ない」と言う風に使用したりします。「夢金」にもあるセリフの「雪は豊年の瑞」ですが「秋雨は凶作」秋の雨は多くても少なくても困るもので、作者は何事にもほどが大切と語っておいて「とは言っても今更この年になって笑っちゃうしかない」と開き直ったところにこの句の面白さがあります。年齢の違いで俳句の切り口がこんなに違うのかと選句を楽しませてもらった「人」の三句でした。
『南瓜』
「天」の句 | かぼちゃ屋のお客小さんと上を見る | こまく(柘植勇人) |
|---|---|---|
「地」の句 | 断ち切って見える南瓜の黄金色 | 土佐林優紗 |
エコバックに唐茄子一つ高気圧 | 九曜(星順子) | |
「人」の句 | 南瓜割るぶっきらぼうに笑ふ君 | 萩谷心奈 |
ふるさとの唐茄子届く縁談と | 小田毬藻(小田和夫) | |
校庭の隅で児等待つ南瓜かな | 几右(友井求) |
天の句は「かぼちゃ屋のお客小さんと上を見る」落語「かぼちゃ屋」を知らないとこの句は理解できないかもしれません。落語「かぼちゃ屋」は与太郎噺で叔父さんがぶらぶらしている与太郎に商売をさせるためにかぼちゃを売らせます。「仕入れの値段の上を見て儲けなくちゃいけない」と言われたのですが与太郎は「上を見て売る」の意味を上を向いて売れば良いと勘違いして、口を開けて空を見ながらかぼちゃを売ります。先代小さんはこの「かぼちゃ屋」を得意として柳家の十八番に仕立て上げました。この句はその先代小さんへの称賛句でもあります。俳句を見るとちょっとおかしな点があります。落語の中の「かぼちゃ屋のお客と演じている小さんが上を見ている」というのです。小さんが演じているのですから、落語に出てくるかぼちゃ屋の客も小さんのはずです。しかし挙句は「かぼちゃ屋のお客小さんと上をみる」と詠んでいるのです。ここがこの句の素晴らしい表現なのです。小さんの高座を見ている作者はすでに落語の世界に入ってしまってかぼちゃ屋のお客の一人になってしまっているのです。それは作者だけでなく寄席のお客様全員が小さんの芸の中に入り込んでいる様子なのです。「かぼちゃ屋の客と小さん」と接続詞の「と」で繋がず「かぼちゃ屋のお客」と体言止めにしたのも巧い表現です。小さんの芸にお客も上を見たと詠んだのではつまらない一コマを見事に俳句に創り上げました。他の句会では「天」に抜けることは多分稀な作品でしょうが「謝楽祭」ならではの秀句です。
「地」の「断ち切って見える南瓜の黄金色」この句は「天」を二つ出してよければ「天」に推したかった句です。「南瓜」の兼題で今回一番多かったのは南瓜の皮が固いので切るのに一苦労した句、「南瓜煮」から母や父を思い出すといった句。良き昔を感じさせるノスタルジーな俳句などでした。そんな中でこの句は正岡子規の唱えた、ありのままの対象を具象的に表現する「写生」を実践して詠みあげた感動の秀句です。自分の中にある悩みや迷いを断ち切った時、あのごつごつした南瓜の皮のようなカオスから黄金色の希望が生まれてくる。「断ち切って」が堅い扉を切り開く力強さと南瓜の堅い皮と相まって黄色ではなく「黄金色」の表現が未来への希望を謳い上げています。その巧みさは見事です。この句の作者は二十代の女性ですからなおさら未来に向けた想いを感ぜざるを得ません。「地」のもう一句「エコバックに唐茄子一つ高気圧」エコバックに唐茄子がひとつ。そして秋晴れの高い空。こう詠んだのなら平凡な一句に過ぎないでしょう。もしそうなら下五は「秋の空」とか「天高し」。季語が気になるなら「青き空」などと表現したに違いないのです。なぜ「高気圧」と表現したのか、そして何故「唐茄子がエコバックにひとつなのか」ここがこの句の機微なのです。俳句にあまり使われていない言葉「高気圧」。私は表の意味とは別にこんな風景を浮かべました。秋の気圧の変化は体に影響を与えて体調を崩すひとが多いのは知られています。特に気圧が急激に上がった時に自律神経が変化についていけず、頭痛やだるさ、めまいが生じてしまう事を「気象病」と言います。せっかくの秋晴れの買い物にでかけた作者でしたがちょっと体の調子がイマイチです。でもせっかくの買い物です。唐茄子ひとつくらいなら買って帰れる。こんな風景を感じさせてくれました。「エコバック」に「唐茄子ひとつ」「高気圧」三つの名詞を接続詞「に」だけで繋いだ二句一章も巧い。「人」の句は「南瓜割るぶっきらぼうに笑ふ君」南瓜の皮が堅いので切るのが大変という句が多い中、その様子を「ぶっきらぼうに笑ふ君」の「ぶっきらぼう」で表現したのが上手い。ぶっきらぼうは表面上は愛想はないが内面は繊細で優しい様子を意味する言葉でもあり、割られた南瓜とぎこちなく笑う相手の顔が浮かぶ秀句です。「ふるさとの唐茄子届く縁談と」説明はいらない滑稽句です。南瓜とお見合い写真。昔から猿山の前での告白や犬の狆をわざわざ顔のそばで抱く。なんて対比で魅力をひきだす話はありますが唐茄子と縁談話は笑えます。「ふるさとの唐茄子届く」がこの句の作者の実家を想像させてくれて温かな句となりました。「校庭の隅で児等待つ南瓜かな」夏休みの風景でしょう。休み前に校庭の隅の畑に撒いた種がすっかり大きな実になって子供たちの登校を待っている。それは南瓜だけでなく担任の先生や学校のすべての遊具たちも同じなのでしょう。擬人法が上手く表現された良句です。
『下駄』
「天」の句 | 父の下駄手の届くほど雲の峰 | ハイカー伸(中川伸) |
|---|---|---|
「地」の句 | 吊るされて下駄の売られし秋の暮 | 丸亀敏邦 |
秋晴の小指はみ出す下駄軽し | 鹿澄(望月和美) | |
「人」の句 | 盆荒やかたと鳴りたる父の下駄 | 櫻庭寛 |
守宮棲む三和土の父の下駄のかげ | 雪鹿(中村逸子) | |
下駄ならぶ小さな石がまじっとる | 佐々木心音 |
「下駄」から父の面影を詠った句とやはり落語「牡丹燈籠」に関係した句が目立ちました。下駄は父のイメージなのですね。そんな沢山の句から「天」に抜けたのは「父の下駄手の届くほど雲の峰」中七の「手の届くほど」の表現が上手いです。晩夏の入道雲はまるで手の届きそうな空です。しかしもちろん手は届きません。多分亡くなっている父の歳にそろそろ近づいてきた自分ではあるのでしょう。しかし未だに父の威厳には届かない自分が居る。そう。ほんの下駄の高さほどいつも父は先を行っているのです。父の下駄を履いて思い出せば背の高い父の後ろに入道雲の峰が広がっていた。下駄の背丈と雲の峰。二句一章が心地よい秀句です。「地」の句は「吊るされて下駄の売られし秋の暮」吊るしというのは着物や洋服でも季節が外れた割引の品の総称です。下駄も夏場には箱に入って店頭に並んでいたものが、一絡げの吊るしで売られている。人も同じで若き働き盛りから外れた自分はあの吊るしの下駄のようなものなのか。そろそろ秋の暮。人生も終の季節が近づいていると店先の吊るしの下駄から想像してしまう自分が居る。でも吊るしだろうとまだまだ現役で使えるんだと言う気概もどこかに残しつつ、秋の暮が少し寂しい下駄の句でした。「秋晴の小指はみ出す下駄軽し」この句は先の句とは真逆な軽やかな句です。中七の「小指はみ出す」が勢いよく駆け出す女性の裸足で履いた下駄の姿を想像させます。「下駄軽し」と「秋晴れ」が作者の弾む胸の内を尚更高めていてオノマトペを使わずとも下駄の軽やかな音が聞こえてくる句です。「人」の一句目はやはりお父さんを詠んだ句です「盆荒やかたと鳴りたる父の下駄」上五の「盆荒」は盂蘭盆の頃押し寄せる高波の事で秋の季語です。亡くなった父の下駄が何かの拍子にかたと鳴ったように感じた。そうか今日は盂蘭盆だから父が帰って来て愛用の下駄に足を通したんだろう。という句です。父と下駄でもう一句「守宮棲む三和土の父の下駄のかげ」この句は守宮となって亡くなったお父さんが三和土に置かれた下駄のかげから家族を見守っていると言う句です。守宮(ヤモリ)は漢字からも想像がつくように家を守ってくれるお使い姫です。三和土(タタキ)はさんわどとも読みます。石灰、土、にがりの三種で固めた土間の事で、玄関の土間の部分です。お彼岸やお盆に先祖が動物や虫に姿を変えて家族に会いに来るたとえは昔からよく聞くことですが心地よい句としました。「下駄ならぶ小さな石がまじっとる」この句は滑稽句のようですが、読み返してみると味のある句景が広がってきます。下駄を良く履く人は分かると思いますが道を歩いてくると必ず小石が下駄の歯に刺さってきます。その下駄を土間で脱ぐとこの小石がなぜか取れて下駄の廻りに散らばるのです。それを発見した光景を詠んだのがこの句です。加えてこの句には違った情景も含まれています。下五が「混じってる」ではなく「まじっとる」と言う表現です。どこか田舎のお盆か何かの集まりで訛った大人が囁いたように聞こえませんか。また子供の事を「じゃり」なんて言い方をしますが、大人の下駄に小さな石、つまり「じゃり」である子供が混ざってる姿が浮かんでくるのです。下駄は夏の季語でもありますから親戚の集まりに子供が混じっているお盆のひとこままでこの句は感じさせてくれるのです。
以上簡単ではありますが十八句の句評をさせていただきました。
『佳作』 | 仲直り秋雨の中逢ひに行く | 田辺凪沙 |
|---|---|---|
秋雨に誘われるまま本開く | 請井花 | |
南瓜畑案山子と並ぶ影ふたつ | 原佳菜咲 | |
かぼちゃ煮はもうそろそろかリモート会議 | 田中佳子 | |
秋雨にレトロの駅舎の赤煉瓦 | 手巻亭のり太(佐藤正義) | |
捨てなさい楽になるよと秋の雨 | 美代子(斉藤美代子) | |
黄帽子の童が覗く南瓜花 | 横山白首(横山準一) | |
お長屋に十の唐茄子ゴトゴトト | 丸岡奈々枝 | |
腰切りて小魔女選んだペポカボチャ | 吉茄子(中村嘉弘) | |
夏暖簾をわけて出で来る日和下駄 | 渡嘉敷五福(稲福達也) |
以上が「佳作」十作です。選句に漏れた方も次回は是非最優秀賞「天」を目指してご健吟下さいませ。次回は夏の季語で募集いたしますので素敵な句をお待ち致しております。また来年も謝楽祭俳句でお逢いいたしましょう。
賞品と賞状は色紙が出来次第お送りいたします。
句評 金原亭世之介
俳号 皂角子(さいかち)
令和7年9月7日
一般社団法人落語協会
謝楽祭実行委員会
俳句募集要項
令和7年(2025年)今年も「俳句」の募集をいたします
各賞受賞の発表は後日落語協会のHPにて発表いたします
懸 賞:賞状、橘右橘師匠による入賞者の名前の一字を寄席文字色紙として、他にも素敵な懸賞を用意いたしております
兼 題:「秋雨」「南瓜」「下駄」
募集要項:住所、氏名、俳号(ペンネーム)、年齢、電話番号、メールアドレス
募集〆切:8月31日(日)必着、投句無料、メールまたは郵送
メール宛先:sharakusai-haiku@kingpro.co.jp
メールには2025年謝楽祭俳句募集と記してください
郵送宛先:〒110-0005 東京都台東区上野1-9-5
一般社団法人落語協会内
2025年謝楽祭「俳句」係
注意
「秋雨」(あきさめ、しゅうう)は秋の季語です。秋に降る長雨の事を言います。「笠碁」はこの秋雨が背景にあります。秋霖(しゅうりん)、薄梅雨(すすきつゆ)とも呼ばれます。夏の暑さから秋の涼しさに変わる時期に、秋雨前線によってもたらされる長雨のことで、梅雨の時期の雨とは異なり、しとしとと降り続く様子が特徴です。どこか寂しげで物悲しい印象を与える季語です。
「南瓜」(かぼちゃ)は唐茄子、南京ぼうぶら、栗南瓜など呼び名は色々、夏の間に大きな黄色い花をつけた後に秋に実を結びます。人の頭ぐらいあるものが畑にごろごろ転がっている様子はどことなくユーモラスで「かぼちゃ屋」「唐茄子屋政談」など落語の中に幾度となく出演する中秋の季語です。
「下駄」は一般的に夏を連想させる履物で浴衣を着る際に下駄を履くことが多いことから、夏の季語として認識されています。しかし、下駄は一年中履くことができるため季語としては夏に限定されたものではありません。例えば、「雪下駄」のように冬の季語として使われることもあります。怪談噺の「牡丹灯籠」池之端七軒町に響くカランコロンの下駄の音はまさに夏の季語でに
今年も謝楽祭らしい落語の世界ならではの秀句を詠んでご応募ください。お待ちしております
選者 金原亭世之介 「河」「かいぶつ」同人 公益社団法人俳句協会会員 大正大学客員教授




